弥勒緋影(うさぎ)

 『…っ……』
 「…蛮…?」
 反射的に名を呼んでから、居るわけがないと思う。
 ここは屋敷だ。蛮がここに帰ってくるはずがない。
 しかし、気配…ではないが、感じる。
 蛮が一人で苦しんでいるような気がする。
 それ以上は考えず、夜着からいつもの服に着替え、荷物を担いだ。




 「え・・・っ、緋影…?」
 いつも車を止めているという公園で気配を探ると、天野銀次とはかなり離れたところに蛮の気配を感じる。
 近づけば、煙草の煙が漂う中、物陰に蛮が蹲っていた。
 「久しいな」
 「ああ…仕事帰りなのか?」
 この格好のせいか、そう聞いてくる。
 よっぽどのことがない限り、我らはいつも得物を手放すことはないが、蛮が知るはずもないな。
 「いや、蛮が泣いている気がしたのでな」
 「…オレが泣いてる気がしたから、わざわざ来てくれたのか…?」
 「そうだ」
 「……緋影の気のせいだ。泣いてなんかねぇよ」
 「そうか、ならいい」
 確かに泣いてはいないようだ。苦しそうなのは感じるが。
 蛮の苦しみを取り除いてやりたい。が、聞いたところで素直に話すほど、もう蛮も子供ではない。勿論、蛮が話すなら解決できるように導いてやりたいが。
 ならばせめて、安らかな眠りだけでも。
 「今宵は天野銀次の元へ帰るのか?」
 その名に、びくりと反応が返る。…ということは、蛮の苦しみの元は天野銀次なのか…?
 違うのならよし。だがもしそうならば、どうしてくれよう…等と私が考えているなど知る由もなく、蛮はゆるく首を振ると呟いた。
 「たぶん…帰らねぇ」
 「他に行くあては」
 「ねぇよ」
 「ならば、私と来るか? 蛮」
 こんなところで一人膝を抱えて夜明けを待つ必要はない。
 わずかに逡巡した後、蛮は頷いた。




 屋敷には帰りたくないだろうと、適当なホテルをとった。
 風呂で温まったせいか、蛮の雰囲気も和らいで、ほっとする。
 「緋影は入らねぇの?」
 「私は眠るところだったのでな、すでに屋敷で入った」
 「そっか」
 相変わらず生乾きの髪のままでいる蛮の頭を拭いてやると、くすぐったそうに首をすくめる。
 こうしていると昔に戻ったような気がするな。
 「緋影さぁ…寝るとこだったのに、わざわざ来てくれたんだ」
 乾いた髪から、以前より柔らかさのなくなった頬に手を滑らせると、蛮は私の手の上に手をあて、嬉しそうに微笑んだ。
 「相変わらず優しいよな、緋影って」
 「お前にだけだ、蛮」
 そう、蛮だけだ。損得もなく護ってやりたいと願うのは。
 なあ、蛮。お前にとって夏彦に拾われたことは不幸の始まりだったかもしれん。
 だが私は、その点だけは信じてもいない神とやらに感謝したい。
 己の技を磨くことにしか興味がなかった私がこんなにも心奪われる存在に出逢わせてくれたことを。
 「もう休め。明日は早めに戻るのだろう?」
 「…ああ、そうだな…」
 声に苦さが混じる。が、先程出逢った時よりはマシのようだ。
 何かが蛮の慰めになったならいいが。
 蛮が私の横に潜り込みながら聞いてくる。
 「緋影、いつ帰るんだ…?」
 「お前が望むだけ、居よう」
 「じゃあ、朝飯も一緒に食える?」
 「蛮がそう望むなら」
 頷いてやれば、嬉しそうに笑う気配がする。
 蛮が笑う。それだけで私の胸も暖かくなるのだと、お前は知らぬだろうな。
 知る必要はない。私はただ、蛮に幸せでいてほしいだけなのだから。
 「おやすみ、緋影」
 そう呟いて、いつものように私の服の裾を握りしめたまま、目を閉じる。
 治らない癖さえ愛しく思いながら、髪にそっと口付けた。
 「おやすみ、蛮…良い夢を」



☆☆☆



 谷山さんの「人生は一本の長い煙草のようなもの」を聞いてて思いついた話なんだけど…書いてみたらまるっきり「子守歌」だよ、これ(^^;
 なんでだ…。



 苦しんでる蛮ちゃんを誰かが助けてくれたらいいな、と思って。
 でも兄ちゃんいないし、波児は蛮ちゃんが「助けて」って言えば助けてくれるだろうけど、言わない限りはわざわざ来るタイプでもないし。
 ということで、緋影に。
 しかし、口調が…もっと堅かったっけ?(−−;